昭和52年02月23日 朝の御理解



 御理解 第66節
 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何にも言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」

 これは昨日、一昨日でしたかねここを頂きましたですね。昨日一昨日の時にはここんところを、神乍に生まれてきて、神乍に生きて、神乍に死んで行く。そういう生き方が信心、真の信心さして頂く者の生き方だというふうに頂きましたですね。神乍に自分がうまれてこようとして生まれてきたのではない。何日に生まれようとして生まれてきたのではない。言うなら神乍に生まれてきたのであるから、神乍らな生き方、神乍らな生き方が信心によらなければできない。
 しかもただ信心しておるから神乍らな生き方が出来ると言う事ではない。やはり神乍らな道を体得しなければならない。それを合楽では今絶対の道だ。生神を目指す道だと。人間が必ず幸福になれれる、あの世にも持っていけれる。この世にも残しておけれると言うほどしの間違いのない道だと。それを合楽理念に説くのだと。合楽理念に基ずいた生き方をするという事は、だから神乍な生き方をする事なのだと。
 だから神乍らなまたお国替えと同時に神乍な御霊の生活、いわゆる安心の御霊、喜びの御霊としての精進をさせて頂きながら御霊の世界でのおかげも受ける事ができるのだと言う事が、あの昨日一昨日でしたかね、ここの御理解でしたよ。所が私共がならこれは私なら私が、まあ以前の私ならあの無茶苦茶な生き方をして、信心を頂いておりましても、まあ無茶苦茶な生き方でしたでしょうけれども、段々真の信心を目指さしてもろうて、まあ私なりにみ教えに忠実に、まあ生きて来たつもりでありますけれども。
 言うならば、合楽理念を知らず、分らずの中に元にして生きて来た、言うならばいよいよ、成り行きを大事にして来た、神様の御働きとしてそれをまあ、合掌して受けて来た。または元気な心で受けて来たと言うのですから、言うなら神乍なおかげを頂いてきたわけであり、神乍らな生き方をして来たわけである。ところがですなら果たして、なら水も漏らさんような、神乍らな生き方が出来たかと思いますと、とてもとても目の荒い事であって、お粗末御無礼の私である事に気づかして頂いて。
 相済まん言うならば、何十年間であったという事になるのです。私は最近その事をほんとに気づかせて頂いて。昨日一昨日ですかね、昨日の晩です、ここの12時過ぎに御祈念終ってそれから後、神様からお気付け頂いた事があったからその事をずうっと思わせて頂いておったら、ここで椛目合楽を通して人が助かるようになって約30年あまりの二十何年でしょうかね。間の事をずうっとおかげを受けてきておる事はもう数限りない。もうその結果が今日こういうおかげを頂いておるんですけれども。
 まぁようもあんなお粗末御無礼な中にあって今日までおかげを受けてきておったという事でございます。だからもうずっと思い出す限りの、お詫びをさして頂きよりましたら、丁度3時までかかりました。だからもう十五分すればあの起きらんならんとあの、思わせて頂いて休ませて頂いた。そして眠ったと思ったらすぐベルが鳴りましたから起こさせて頂いて、ああ夕べはおかげ頂いてほんとにあの言うならば、寝らずの行をさして頂いたなと私は思うたんです。
 思うたとたんに神様が下さることがね、さんずい編に、この十の字+という字。さんずい編に十の字。何と言う字になりますか。汁という字でしょう。ああこういう受け方、こういう生き方が合楽理念の根本になるところだなと私思いました。まあ夕べ寝とらんけん今日はもう頭が痛か。もう眠られんけん睡眠薬なっと飲んでねろうかと。眠り薬なっと飲もうかと。こういう生き方は自然の働きに言うならば背く事になる。言うならば、まあ言うならば、信心で言えば背信行為である。
 けれどもそれを夕べは眠らん修行をさして頂いたという頂き方は、神様さんずい編ね、自然です神の働きの、働きをそのままに有難く受けた事になるのですから、プラスになる。それがまあそれこそ一滴ですかね、一滴、一滴ではあってもそれが積もり積もってそういう生き方が神乍らな生き方ともなり、お徳を受ける生き方にもなり、力を受ける生き方にもなってくる。それが事実本当なのだから。それを自分が苦しかったり、眠かったり様々な問題、いわゆる悩み苦しみというものがありますけれども。
 それを悩み苦しみにしてしもうたんでは背信行為です。これはもうこの厳密に言うてです。だから背信行為ばっかりしておっておかげの頂けるはずも徳も受けられるはずもありませんよね。私は背信というのは、神様の心に背くという意味で頂いてもらいたいと思います。神様が神愛の現れ、神愛を持って神様がいろいろとおかげ下さってあるのに、それを自分だけがどうしてこんな貧乏くじを引いたじゃろうかとか。自分だけが馬鹿らしかと言った様な受け方。
 ですから例えば苦しいならばです、お道の信心さして頂く者は苦しゅうございます。けれどもまあけっこうな、修行をさして頂きましたという、受け方はさんずい編に、言うならプラスと言う事ですから、そういう一滴一滴が積もり積もって、おかげの形にもなるでしょう。お徳にまたは力にもなるのです。これは合楽理念のもうあの根本ですよ。成り行きを大事にするとか、尊ぶとかとこう言ってまいりましたけれども。夕べ寝とらんけんどうのこうのと、不平不足的なまたそれに苦を感ずるのではなくて。
 ほんとに眠らん修行をさして頂いて有難いと思うた途端にさんずい編にプラス。神様の、背信ではなくて、神様の心に沿うたことになります。神様の心にピッタリと沿うた事になるのです。そういう生き方に徹底する事が、そういう生き方を神乍らな生き方と言うのですから、なら私がなら皆さんからご覧になって。親先生は神乍らな生き方をなさるから、なさったから、今日人が助かるようにもなり。
 自分も助かっておいでなされて、ならこういう合楽大発展のもとを、作っておいでられると言う風に見えるのですけれども。なら私自身ならその、30年なら30年の間を振り返って見ると、まあようもああいうお粗末御無礼の中にあって目の荒い信心であったにもかかわらず。ここまでお繰り合わせを頂いて有難いと言う事になるのです。神乍らに生まれて、神乍らな生き方とこう、例えばなら信心をもとにして言うなら。
 合楽理念をもとにして生活させて頂いておると言うても、ならそれが完璧と言った様な事は中々出来るものではない。昨日は福岡の古谷さんの所のご主人の5年の式年祭がございました。ほんとに、行き届いた盛大な御霊祭でした。神様にお礼を、またお願いをさせて頂いておりましたら、頂くことが、こんな壷にね、花がこういれてあるけれども、壷の水が半分ぐらいしかはいっておりませんもんですから、その根が水に届いていないところを頂いたんです。
 あらこげなことでは、花がすぐ枯れてしまうと思うたら、誰かがそれに水をいっぱいそれに注いで下さるところを御心眼にいただいたです。まだそうでもないだろうけれども、例えばなら、最近の古谷さんの信心が、まあ不行き届きであったり、信心がおろそかになっておるというので水がもう少ないという事ですよね。だからこれになら花を入れても、それはもうつかの間ですぐ枯れてしまう。それを誰かが水をさしている。でその時に思うたのは、はあこれが金光大神お取次ぎの働きだなあと思いました。
 私共が金光様と唱える所に、そこに金光大神お取次ぎの働きが始まるのです。言うならば足りんのだけれども足しておかげを下さる。足りんのだけれども足りんところは足して使うて下さる。私どもの信心というのはそういうものじゃないでしょうか。自分が出来たごと思うとる。自分が出来たから、自分がという生き方というのはもうこの様な神様のこころにそむく生き方はないです。
 おかげを頂いておっても、足りないだらけの私だけれども、神様は足りないところは足りたかのようにしておかげを下さってある。これが金光大神お取り次の私は働きだと思わして頂いております。例えばどう言いますかね。私の方の池尻の方の、今の私とスマヨの連れ合いのお父さんと言う事になります。私にとっても叔父になります。ようはあの朝鮮の釜山で酒屋をしておりました。
 その時にあの、寒牡丹という酒を作っておりました。寒牡丹。こう牡丹が咲いておる。上から、あのレッテルにですね、こうわらのツトでこう作った、覆いがしてあると。そういうお知らせを頂いた。例えばあのまあこれは牡丹なら牡丹、薔薇なら薔薇でもいいですけれどもなら寒中に、もう枯れたかのようにしておるけれども、中に生き生きとした、まだ芽が出ろうかとしておる。けどもそのままほっといたらこの霜の朝、または雪の下にこれが枯れてしまうようなことがある。そこで覆いを致します。わらでツトを作ってこう、霜、雪からあの守ろう、守ってやるというわけです。
 私は天地のおかばいっていうのは、こう言う事だと思うですね。だからねもうあなたの心が枯れておったら、心を神様に向けていなかったらもう天地のおかばいはないです。そうでしょうもん。枯れたものに覆いをする必要はないでしょうが。けれどもいかにも枯れたようにしておるけれども中には神様、金光様という言わばまだ生きたものがあるという時に初めてかぼうて下さる。そしてその霜からまたは雪から守って下さって、春にはそこから芽を出してそして花を咲かせたり、実を実らせたりする事になるのです。
 私どもはそういう意味での金光大神の働きによってのおかばいとそれから、天地の親神様のおかばいというものを受け続けて行っておると言う事であります。但しなら金光大神お取り次のおかばいというのは出来ていなくても、出来たかのようにしてなら、足りない水は足して下さってあるわけ。けれども天地の親神様のおかばいというのは、心に生きたものがない限り、もうおかばいはないと言う事。
 例えばお気付けを頂きよっても、はあお気付け頂きよると初めの間は思うておっても、お気付けをお気付けと思わんようになってきたら、もうお気付けすらもなくなってくる。というのがおかばいが亡くなって来ると言う事なんです。心に生き生きとした心がある。心が生き生きと神様に向こうておる。例えばなら皆さんの場合はです、なら今丁度おかばいを受けておられる時じゃないでしょうか。まあだ花が咲かん。
 まあだ芽がでらんと言うことはいりません。皆さんの心にいうなら生き生きとして、心を合楽に向ける合楽理念を元にして、した生き方をさせて頂かんならんと言う様な意欲があるならば、心があるならば神様は必ずかぼうておって下さる。現在今かぼうておられるのです。かばわれておるのです。ですからそこを信心辛抱してこの春を待つことになりますところに言うならば、夢のある希望のある生活が出来るわけです。
 ところが自分の心が神様から離れ、枯れ果てておるならば現在の自分というものはおかばいをもう受けていていないと悟らなければなりません。どんな時であっても心の中には、芯には金光様っと例えば唱えさせていただけるものがある時には、必ずどういう苦しい時であってもそれは、丁度霜の朝雪の日と言う様な事じゃないでしょうか。けれども必ず天地はあなたをかぼうておられるんだと分らして頂いたら、神様すみませんとお礼を申し上げる以外にない。
 こうして修行さして頂いてという生き方にならせて頂いて、神の働きをそのままに受ける働きですから、言うならプラスになっていくわけです。言わばさんずい編に十という字になるのです。出来ない所を出来たかのようにしてかぼうて下さるおかばいを、金光大神取次ぎの働き、言うなら金光大神のおかばいだと、私は言うふうに今日は聞いて頂いた。願うても願うてもおかげにならん。苦しい事ばっかりだと。それでも神様に向ける心は生き生きとして向けられておる。
 そんならば今は丁度冬の最中にあって、そのもし信心どんがないならば、枯れ果ててしまわなければならないような中にあるんだけども、心が神様に向こうておる限り神様が、おかばい、寒い、冷たいけれどもです、やはりおかばいだけは受けておるのであるから、春が来れば必ず、芽を地上に出す事が出来る。花が咲く事もある。実が実る事にもなるという、そういう夢を持たしてもらう。希望を持たせて頂いての信心。それはなら自分の心しだい。自分の心を見ればすぐ分かるわけです。
 私の心がこのように神様に向こうておる限り、必ず花の咲く時が来るんだという確信が持てれるわけであります。今日の御理解を頂いてそういう言わば、確信が持てれる信心を頂いて頂きたい。いかに神乍らに生まれ、神乍らに生きそして神乍らに果てていくというても、その神乍らに生きておると言うても、なら私自身が、何十年間の事を思うてみたら、一晩中をお詫びをさせて頂く事ばっかりであった。そういう目の荒い何十年間であったにもかかわらず、いかにも出来たかのようにして、おかげを下さってある。
 今日の合楽の御比礼があるということは、いかに金光大神のお取次ぎの働きによって、出来ていないけれども出来たかのようにして、おかげを下さってあるんだと分らしてもらう時に、その有り難さがまた一入のものになってくるのであります。詫びるところからいよいよ、しみじみとした謙虚な生活も出来る事にもなるのです。今日は私この66節からですね先日頂いた、神乍らに生まれ、神乍らに生き神乍らに果てていくと言う言、もうそれだけですけれどもそこが人間です。
 生身を持っておりますから、どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。その御粗末御無礼を詫びていくと言う所にです、というそうした生き生きとした心で神様にお詫びを申し上げ、御礼を申し上げると言った様な生き方の中からですね。言うならば天地のおかばいをおかばいを受け続けて行く事が出来る。金光大神のお取次ぎの働きをそこに頂き、金光大神に足りんところは足して頂いて、おかげが頂かれる、言うならば道が開ける。そういう生き方を持って。
 共の場合は神乍らに生きると言う事になるのじゃないでしょうか。だから神乍らに生きるという事は、いかに合楽理念を元にした生き方でなかならければならないか。でもやはり、どこにお粗末があるやらご無礼があるやらわからん。そこを詫びて行く生き方。そこにおかばいを受けどうしに受けていく、神乍らな生き方、生涯があると言う事を思わせて頂く時です。ほんとに勿体無い。
 言うならば有り難いと言う事になってまいります。私がこれだけ熱心に信心したから頂いた。んなるほどそうであった。そういう生き生きとした心があった。けれども神様の目からご覧になれば隙だらけである。目の荒い事である。そこを言うならば目ごもう信心が出来たかのようにしておかげを頂きとめていくおかげを頂いた時、神乍らに生まれ、神乍らに生き、神乍らに果てていけれる広大なおかげになってくると思います。
   どうぞ。